保元物語 - 04 新院御謀叛思し召し立つ事

 かゝる御うれへの折節、新院の御心中おぼつかなしとぞ人申ける。されば仙洞もさはがしく、禁裏も静ならざるに、新院の御方の武士、東三条に籠りゐて、或は山の上にのぽり、木の枝にゐて、姉少路西洞院の内裏、高松殿を伺ひ見る由きこえしかば、保元々年七月三日、下野守源義朝に仰て、東三条の留主に候少監物藤原光貞并に武士二人を召取て子細をとはる。一院御不予の間、去ぬる比より、御謀叛の聞え有のみならず、軍兵東西より参集り、兵具を馬におふせ、車に積で持はこび、其外あやしき事おほかりけり。新院日ごろ思食けるは、「昔より位をつぎ、ゆづりをうくること、必嫡孫にはよらね共、其器をえらび、外戚の安否をも尋らるゝにてこそあれ。是は只当腹の寵愛といふ計をも(っ)て、近衛院に位を押とられて、恨ふかくて過し処に、先帝体仁親王隠給ぬる上は、重仁親王こそ帝位に備り給べきに、おもひのほかに、又四の宮にこえられぬるこそ口惜けれ。」と御憤ありければ、御心のゆかせ給事とては、近習の人々に、「いかがせんずるぞ。」と常に御談合ありけり。
 宇治の左大臣頼長と申は、知足院の禅閤殿下忠実公の三男にておはします。入道殿の公達の御中に、ことさら愛子にてまし<けり。人がらも左右に及ばぬ上、和漢ともに人にすぐれ、礼義を調へ、自他の記録にくらからず。文才世にしられ、諸道に浅深をさぐる。朝家の重臣・摂禄の器量也。されば御兄の法性寺殿の詩歌に巧にて、御手跡のうつくしくおはしますをば誹申させ給て、「詩歌は楽の中の翫也。朝家の要事に非ず。手跡は一旦の興也。賢臣必しも是を好むべからず。」とて、我身は宗と全経を学び、信西を師として、鎮に学窓に籠て、仁義礼智信をたゞしくし、賞罰・勲功をわかち給、政務きりとをしにして、上下の善悪を糺されければ、時の人、悪左大臣とぞ申ける。諸人か様に恐奉りしかども、眞実の御心むけは、きはめてうるはしくおはしまして、あやしの舎人・牛飼なれども、御勘当を蒙るとき、道理をたて申せば、こま<”と聞召て、罪なければ御後悔ありき。又禁中・陣頭にて、公事をおこなはせ給時、外記・官史等いさめさせ給ふに、あやまたぬ次第を弁へ申せば、我僻事とおぼしめす時は、忽におれさせ給て、御怠状をあそばして、かれらにたぶ。恐をなして給はらざる時は、「我よく思召怠状也。只給り候へ。一の上の怠状を、已下臣下取伝ふる事、家の面目に非ずや。」と仰られければ、畏(っ)て給けるとかや。誠に是非明察に、善悪無二におはします故なり。世も是をもてなし奉り、禅定殿下も大切の人に思食けり。
 久安六年九月廿六日、氏の長者に補し、同七年正月十九日、内覧の宣旨をかうぶらせ給。「摂政・関白を閣て、三公内覧の宣旨、是ぞ始なる。」と、人々かたぶき申されけれ共、父の殿下の御はからひの上は、君もあながちに仰らるゝ子細もなし。此大臣とても、必しも世を知食まじきにもなければ、諸臣も是をゆるし給けり。
 法性寺殿は、たゞ関白の御名計にて、よその事のごとく、天下の事にをきて、いろはせ給ふ事もなかりしかば、殊に御憤深くて、「当今位につかせ給ひて、世淳素にかへるべくは、関白の辞表おさまるか、又内覧・氏の長者、関白に付らるゝか、両様ともに天裁に有。」と、頻に申させ給ひけり。此関白殿は、万なだらかにおはしませば、人皆ほめもちひ奉れり。
 関白殿と左大臣殿とは、御兄弟の上、父子の御契約にて、礼義深くおはしましけれども、後には御中あしくぞ聞えし。されば左大臣殿思食けるは、「一院穏させ給ぬ。今、新院の一の宮重仁親王を位につけ奉て、天下を我まゝに執おこなはばや。」と思ひ立給ひければ、常に新院参り、御宿夜ありければ、上皇も此大臣を深く御頼み有て、仰合らるゝ事懇也。
 或夜新院、左大臣殿におほせられけるは、「抑、昔をも(っ)て今を思に、天智は舒明の太子なり。孝徳天皇の王子、其数おはししかども、位につき給き。仁明は嵯峨の第二の王子、淳和天皇の御子達を閣て、祚をふみ給き。花山は一条に先立、三条は後朱雀にすゝみ給き。先蹤是おほし。我身徳行ししといへども、十善の余薫にこたへて、先帝の太子と生れ、世澆薄なりといへども、高来の宝位をかたじけなくす。上皇の尊号につらなるべくは、重仁こそ人数に入べき所に、文にも非ず、武にもあらぬ四宮に、位を越られて、父子共に愁にしづむ。しかりといへ共、故院おはしましつるほどは、力なく二年の春秋ををくれり。今、旧院登霞の後は、我天下をうばゝん事、何の憚かあるべき。定て神慮にもかなひ、人望にも背かじ物を。」と仰られければ、左府、もとより此君世をとらせ給はば、わが身摂禄にをひてはうたがひなしとよろこびて、「尤思食立所、しかるべし。」とぞ勤め申されける。
 新院、此御企なりければ、鳥羽の田中殿を出させ給べき由を仰られけるに、なにと聞わけたる事はなけれども、「何様、ことの出来たるべきにこそ。」とて、京中の貴賤・上下、資財・雑具を東西へはこび隠す。家々には門戸をとぢ、人々は兵具を集めければ、「こはいかに。たとひ新院国をうばはせ給共、仙院晏駕の後、纔に十ケ日の内に、此御企、宗の御計ひもはかりがたく、凡慮のをす処然るべからず。このほどは、雲の上には、星の位静に、境の中には、波風も治まりつる御代に、かく切(っ)て継だる様に、さはぎ乱るゝ事のかなしさよ。」と人々歎あへり。

保元物語 - 05 官軍方々手分けの事