其比、六条判官為義と申は、六孫王より五代の後胤、伊与入道頼義が孫、八幡太郎義家が四男也。内裏よりめされけれども、いかゞ思ひけん参ぜざりしかば、上皇の召にもしたがはずしてありしが、余に白河殿より度々めされければ、まいるべき由申ながら、いまだ参らず。仍而孝長卿、六条堀川の家に行向(っ)て、院宣の趣の給ひければ、忽に変改して申けるは、「為義、義家が跡を続で朝家の御まもりにて候へば、君心にくゝおぼしめさるゝは理にて侍れども、我と手下したる合戦未仕らず。但十四のとし、舅、美濃前司義綱が謀叛をおこし、近江国甲賀山にたてこもり候しを、承(っ)て登向し侍しかば、子共は皆自害し、郎等どもは落うせて、義綱は出家仕りしをからめ進じ候き。又十八歳の時、南都の大衆朝家をうらみ奉る事有て、都へ責上る由きこえしかば、罷向(っ)て防げと仰下さるゝ間、俄事にて侍る上、おりふし無勢にて、わづかに十七騎にて粟粉山にはせむか(っ)て、数萬の大衆を追返し候き。其後は自然の事出来る時も、冠者原をさしつかはしてしづめ候き。是為義が高名に非ず。されば合戦の道無調練なる上、齢ひ七旬に及び候間、物の用にも立がたく侯。よ(っ)て此程、内裏よりしきりにめされ候つれ共、所労の由をいつはり申て参ぜず。すべて今度の大将軍、いたみ存ずる子細おほく侍り。聊宿願の事有て、八幡に参籠仕て候に、さとし侍き。又すぐる夜の夢に、重代相伝仕(っ)て候月数・日数・源太が生衣・八龍・澤潟・薄金・楯無・膝丸と申て、八領の鎧候が、辻風にふかれて四方へ散と見て侍る間、かた<”憚存候。まげて今度の大将をば、余人に仰付られ候へ。」とぞ申されける。
孝長重ねてのたまひけるは、「如夢幻泡影は、金剛般若の名文なれば、夢ははかなき事也。其上、武将の身として、夢見・物忌など余にをめたり。披露に付ても、憚あり、いかでか参られざらん。」と申されければ、「さ候はゞ為義が子どもの中には、義朝こそ坂東そだちの者にて合戦に調練仕り、其道かしこく候上、付したがふ所の兵共、皆然べき者共にて候へ共、それは内裏へ召れて参り候。其外のやつ原は、勢なども候はぬ上、大将など仰付らるべき者とも覚候はず。但八郎為朝冠者こそ、力も人にすぐれ、弓も普通にこえて、余に不用に候しかば、幼少より西国の方へ追下して候が、おりふし罷上て侯。是をめされて、軍の様をも仰下され侯へ。」と申されけるを、「其様をも、参てこそ申上らるべけれ。ゐながら院宣の御返事はいかゞあらん。然るべからず。」との給ひければ、「誠に其義あり。」とて打立ければ、四郎左衛門頼賢・五郎掃部助頼仲・賀茂六郎為宗・七郎為成・鎮西八郎為朝・源九郎為仲以下、六人の子ども相具して、白河殿へぞ参りける。新院御感の余に、近江国伊庭庄・美濃国青柳庄、二ケ所を給て、即判官代に補して、上北面に候べき由、能登守家長して仰られ、鵜丸と云御剣をぞ下されける。
此御帯太刀を鵜丸と名付らるゝ事は、白河院、神泉苑に御幸成(っ)て、御遊の次に、鵜をつかはせて御らんじけるに、ことに逸物と聞えし鵜が、二三尺計なるものを、かづきあげては落しおとし、度々しければ、人々あやしみをなしけるに、四五度に終にくふてあがりたるを見れば、長覆輪の太刀也。諸人奇異の思ひを成、上皇もふしぎにおぼしめし、「定て霊剣なるべし。これ天下の珍宝たるべし。」とて、鵜丸と付られて御秘蔵ありけり。鳥羽院伝させ給けるを、故院又新院へ参せられたりしを、今、為義にぞ給ける。誠に面目の至也。
為義、今度は最後の合戦と思ひければ、重代の鎧を一領づゝ五人の子どもにきせ、我身は薄金をぞきたりける。源太が初衣と膝丸とは、嫡々につたはる事なれば、雑色花澤して、下野守のもとへぞつかはしける。為朝冠者は器量人にすぐれて、常の鎧は身に合ざりければ着ざりけり。此膝丸と申は、牛千頭が膝の皮を取り、おどしたりければ、牛の精や入たりけん、常に現じて主を嫌けるなり。されば塵などをはらはんとても、精進潔斉して取出しけるとなり。かゝる希代の重宝を、敵となる子のもとへつかはしける親の心ぞ哀なる。