去程に、内裏より左大将公教卿・藤宰相光頼卿、二人御使にて、八条烏丸の美福門院へ参り、権右少弁惟方をも(っ)て、故院の御遺誡を申出さる。此兵乱の出来たらんずる事をば、かねてしろしめしけるにや、内裏へめさるべき武士の交名をしるしをかせ給へるなり。義朝・義康・頼政・季実・重成・維繁・実俊・資経・信兼・光信等なり。安芸守清盛は、多勢の者なれば、尤めさるべけれども、一宮重仁親王は、故刑部卿忠盛の養君にてましませば、清盛は御乳母子なれば、故院御心ををかせ給ひて、御遺誡にもいれさせ給はざりしを、女院御謀をも(っ)て、「故院の御遺誡にまかせて、内裏を守護し奉るべし。」と御使ありければ、清盛、舎弟・子共引具して参けり。諸国の宰吏・諸衛官人・六府の判官、各兵杖を帯して候けり。公家には、関白殿下・内大臣実能・左衛門督基実・伏見源中将師仲などぞ参られける。