保元物語 - 11 新院御所各門々固めの事付けたり軍評定の事

 新院は、斉院の御所より北殿へうつらせ給ふ。左府は車にて参給。白河殿より北、川原より東、春日の末に有ければ、北殿とぞ申ける。南の大炊御門面に、東西に門二あり。東の門をば平馬助忠政承(っ)て、父子五人、并に多田蔵人太夫頼憲、都合二百余騎にてかためたり。西の門をば六条判官為義承(っ)て、父子六人してかためたり。其勢百騎計には過ざりけり。是こそ猛勢なるべきが、嫡子義朝に付て、多分は内裏へ参けり。爰に鎮西の八郎為朝は、「我は親にもつれまじ。兄にも具すまじ。高名不覚もまぎれぬやうに、只一人いかにも強からん方へさしむけ給へ。たとひ千騎もあれ、万騎もあれ、一方は射はらはんずる也。」とぞ申ける。よ(っ)て西川原面の門をぞかためける。北の春日面の門をば、左衛門太夫家弘承(っ)て、子共具してかためたり。其勢百五十騎とぞきこえし。
 抑、為朝一人として、殊更大事の門をかためたる事、武勇天下にゆるされし故なり。件の男、器量人にこえ、心飽まで剛にして、大力の強弓、失続早の手聞なり。弓手のかひな、馬手に四寸のびて、矢づかを引事世に越たり。幼少より不敵にして、兄にも所ををかず、傍若無人なりしかば、身にそへて都にをきなばあしかりなんとて、父不孝して、十三のとしより鎮西の方へ追下すに、豊後国に居住し、尾張権守家遠を乳母とし、肥後の阿曾の平四郎忠景が子、三郎忠国が聟に成て、君よりも給らぬ九国の惣追補使と号して、筑紫をしたがへんとしければ、菊地・原田を始として、所々に城をかまへてたてこもれば、「其儀ならば、いでおといて見せん」とて、未勢もつかざるに、忠国計を案内者として、十三の年の三月の末より、十五の年の十月まで、大事の軍をする事廿余度、城をおとす事数十ヶ処也。城をせむるはかりこと、敵をうつ手だて人にすぐれて、三年が間に九国を皆せめおとして、をのづから惣追補使に推成(っ)て、悪行おほかりけるにや、香椎の宮の神人等、都に上りう(っ)たへ申間、去じ久寿元年十一月廿六日、徳大寺中納言公能卿を上卿として、外記に仰て宣旨を下さる。
 源為朝久住二宰府一、忽二緒朝憲一、咸背二綸言一、梟悪頻聞、狼籍尤甚。早可レ令レ禁二進其身一。依二宣旨一執達如レ件云々。
 然れ共、為朝猶参洛せざりければ、同二年四月三日、父為義を解官せられて、前検非違使になされにけり。為朝是をきいて、「親の咎にあたり給ふらむこそあさましけれ。其義ならば、我こそいかなる罪科にもおこなはれんず。」とて、いそぎ上りければ、国人共も上洛すべきよし申けれ共、「大勢にて罷上らん事、上聞穏便ならず。」とて、かたのごとくに付したがふ兵ばかりめしぐしけり。乳母子の箭前払の須藤九郎家季・其兄あきまかぞへの悪七別当・手取の与次・同与三郎・三町礫の紀平次太夫・大の矢新三郎・越矢の源太・松浦の次郎・左中次・吉田の兵衛太郎・打手の紀八・高間の三郎・同四郎をはじめとして、廿八騎ぞ具したりける。よ(っ)て去年より在京したりしを、父不孝をゆるして、此御大事にめし具しけるなり。
 為朝は七尺計なる男の、目角二つ切たるが、かちに色々の糸をも(っ)て、師子の丸をぬふたる直垂に、八龍といふ鎧をにせて、しろき唐綾をも(っ)てをどしたる大荒目の鎧、同獅子の金物打(っ)たるをきるまゝに、三尺五寸の太刀に、熊の皮の尻ざや入、五人張の弓、長さ八尺五寸にて、つく打(っ)たるに、卅六さしたる黒羽の矢負、甲をば郎等にもたせてあゆみ出たる体、樊噲もかくやとおぼえてゆゝしかりき。謀は張良にもおとらず。されば堅陣をやぶる事、呉子・孫子がかたしとする所を得、弓は養由をも恥ざれば、天をかける島、地をはしる獣の、おそれずと云事なし。上皇を始まいらせて、あらゆる人々、音にきこゆる為朝見んとてこぞり給ふ。左府則、「合戦の趣はからひ申せ。」との給ひければ、畏而、「為朝久しく鎮西に居住仕(っ)て、九国の者どもしたがへ候に付て、大小の合戦数をしらず。中にも折角の合戦廿余ヶ度なり。或は敵にかこまれて強陣を破り、あるひは城を責て敵をほろぼすにも、みな利をうる事夜討にしく事侍らず。然れば只今高松殿に押よせ、三方に火をかけ、一方にてさゝへ候はんに、火をのがれん者は矢をまぬかるべからず、矢をおそれむ者は、火をのがるべからず。主上の御方心にくゝも覚候はず。但兄にて候義朝などこそ懸いでんずらめ。それも真中さして射おとし候なん。まして清盛などがへろ<矢、何程の事か候べき。鎧の袖にて払ひ、けちらしてすてなん。行幸他所へならば、御ゆるされを蒙(っ)て、御供の者、少々射ふする程ならば、定而駕輿丁も御輿をすてて逃去候はんずらん。其時、為朝参向ひ、行幸を此御所へなし奉り、君を御位につけまいらせん事、掌を返すがごとくに候べし。主上を向へまいらせん事、為朝矢二三をはなたんずる計にて、未天の明ざらむ前に、勝負を決せむ条、何の疑か候べき。」と憚る所もなく申たりければ、左府、「為朝が申様、以外の荒義なり。年のわかきが致す所歟。夜討などいふ事、汝等が同士軍、十騎廿騎の私事也。さすが主上・上皇の御国あらそひに、源平数をつくして、両方に有(っ)て勝負を決せんに、むげに然るべからず。其上、南都の衆徒をめさるゝ事あり。興福寺の信実・玄実等、吉野・十津川の指矢三町・遠矢八町と云者どもを召具して、千余騎にてまいるが、今夜は宇治につき、富家殿の見参に入、暁是へまいるべし。かれらを待調て合戦をばいたすべし。又明日、院司の公卿・殿上人を催さんに、参ぜざらん者共をば死罪におこなふべし。首をはぬる事両三人に及ばゞ、残りはなどか参らざるべき。」と仰られければ、為朝、上には承伏申て、御前を罷立てつぶやきけるは、「和漢の先蹤、朝庭の礼節には似もにぬ事なれば、合戦の道をば、武士にこそまかせらるべきに、道にもあらぬ御はからひ、いかゞあらむ。義朝は武略の道には奥義をきはめたる者なれば、定て今夜よせんとぞ仕候覧。明日までも延ばこそ、吉野法師も奈良大衆も入べけれ。只今押よせて、風上に火を懸た覧には、戦とも争利あらんや。敵勝にのる程ならば、誰か一人安穏なるべき。口おしき事かな。」とぞ申ける。

保元物語 - 12 将軍塚鳴動并びに彗星出づる事