保元物語 - 12 将軍塚鳴動并びに彗星出づる事

 去程に、鳥羽殿には、故院の旧臣、左大将公教卿・藤宰相光頼卿・右大弁顕時朝臣など籠居し給けるが、「去ぬる八日より彗星東方に出、将軍塚頻に鳴動す。天変地夭、占文のさす所、つゝしみ更にかろからず。新院の御所には、軍兵数千騎まいり集て、公卿殿上人をめすに、まいらざらん者をば死罪におこなふべしと、左府議せらるなれば、我らとても、其難をのがるべからず。其上、京中を焼はらひ、内裏にも火をかけてせめんに、若行幸他所へならば、御輿に矢をまいらせんなどゝ、為朝とかやが申なれば、君とても安穏にわたらせ給はんや。一院かくれさせ給て、十ヶ日の内に、かゝるふしぎの出来ぬるこそあさましけれ。内裏にも仙洞にも、御追善のいとなみの外は他事おはしますまじきに、こはいかになりぬる世の中ぞや。天照大神は、百王をまもらんとの御ちかひも、つきぬるやらん。」と申されければ、光頼卿、「つら<事の心を思ふに、日本は是神国也。されば御裳濯川の流絶ずして、既に七十四代の天津日次を受給ふ。昔、崇神天皇の御時、天津社・国津社を定をかれてより此かた、神わざ事しげき国のいとなみ、只宝祚長久のため也。七千余座の神祇、夜のまもり、昼の守り、なじかはおこたり給べき。就中、推古天皇の御時、上宮太子世に出て、守屋の逆臣をほろぼして仏法をひろめ、四天王寺を立て国家をいのり、聖武天皇、東大寺を立て、大神宮の御本地をあらはして、帝運を祈請し給。行基菩薩は、河州石川の郡に四十九院を立始給ひて宝祚を鎮護し給ひしより、伝教大師は、此叡山を開基して一乗妙典をあがめ、弘法大師は、高野山を建立して眞言の秘法を修行して専に天下の護持をいたす。殊に白河・鳥羽の南院、仏法に帰しおはしまして、国郡数神に裁たり。田園おほく仏聖に寄らる。よ(っ)て三宝も国家をまもり給ふべし。神明も帝祚をすて給はんや。其上此京は、桓武天皇の御宇、延暦十三年十月廿一日、長岡の京より移されて後、弘仁元年九月十日、平城の先帝世をみだり給ひしかども、此京は無為也。其後帝王廿五代、星霜三百四十七年の春秋ををくれり。其間にも、朱雀院の御宇には、将門・純友東西に乱逆を成、御冷泉の御世には、貞任・宗任兄弟謀叛を企、或は八ヶ国をしたがへて八箇年合戦し、或は奥州に支て、十二年までふせぎ戦しかども、あへて都の乱にならず、つゐに皇化にしたがひき。されば今も誰人か此京をほろぼし、何者か我君をかたぶけん。南には八幡大菩薩、男山に跡をたれて帝都をまもり、北には賀茂大明神・天満天神、東西には稲荷・祇園・松尾・大原野等、光をならべて日夜に結番し、禁囲をまもり給ふ。縦逆臣乱をなすとも、争か霊神のたすけなかるべき。」とたのもしげにぞのたまひける。


保元物語 - 13 主上三条殿に御幸の事付けたり官軍勢汰への事