去程に、内裏は高松殿なりしが、分内せばくて便宜あしかりなんとて、俄に東三条殿へ行幸なる。主上は御引直衣にて、腰輿にめさる。神璽・宝剣を取て、御輿に入まいらせらる。御供の人々には、関白殿・内大臣実能・左衛門督基実・右衛門督公能・頭中将公親朝臣・左中将光忠・蔵人少将忠親・蔵人右少弁資長・右少将実宣・少納言入道信西・春宮学士俊憲・蔵人治部太輔雅頼・大外記師季等也。武士の名字はしるすに及ばず。
其時義朝を御前にめさる。赤地の錦の直垂に折烏帽子引立て、脇立ばかりに太刀帯たり。少納言入道をも(っ)て軍の様をめしとはる。義朝畏而申けるは、「合戦の手だて様々に候へ共、即時に敵をしへたげ、たち所に利をうる事、夜討に過たる事候はず。就中南都より衆徒大勢にて、吉野・十津川の者共めし具して、千余騎にて今夜宇治につく。明朝入洛仕る由きこえ候。敵に勢のつかぬさきに推寄候はん。内裏をば清盛などに守護せさせられ候へ。義朝は罷向(っ)て、忽に勝負を決し候はん。」とぞすゝみける。
信西御前の簀子に候けるが、殿下の御気色を承(っ)て申けるは、「此の儀尤然るべし。詩歌管絃は臣家の翫所也といへ共、それ猶くらし。いはんや武芸の道にをひてをや。一向汝がはからひたるべし。誠に先ずる時は人を制す、後するときは人に制せらるといへば、今夜の発向尤也。然らば清盛をとゞめん事もしかるべからず。武士は皆々罷向べし。朝威をかろしめ奉る者、豈天命にそむかざらむや。はやく凶徒を追討して、逆鱗をやすめ奉らば、先日ごろ申す所の昇殿にをひては、うたがひあるべからず。」と申されければ、義朝、「合戦の庭に罷出て、なんぞ余命を存せん。只今昇殿仕(っ)て、冥途の思出にせん。」とて、をして階上へのぼりければ、信西、「こはいかに。」と制しけり。主上是を御覧じて、御入興ありけるとなり。
十一日の寅刻に、官軍既に御所へをしよす。折節東国より軍勢上り合て、義朝にあひしたがふ兵多かりけり。先鎌田の次郎正清をはじめとして、後藤兵衛実基、近江国には佐々木の源三・八嶋冠者、美濃国には平野大夫・吉野太郎、尾張国には舅熱田大宮司が奉る家子郎等、三河の国には志多良・中条、遠江国には横地・勝俣・井の八郎、駿河国には入江の右馬允・高階十郎・息津四郎・神原五郎、伊豆には狩野宮藤四郎親光・同五郎親成、相模には大庭平太景吉・同三郎景親・山内須藤刑部丞俊通・其子瀧口俊綱・海老名の源八季定・秦野二郎延景・荻野四郎忠義、安房には安西・金余・沼の平太・丸の太郎、武蔵に豊嶋四郎・中条新五・新六・成田太郎・箱田次郎・河上三郎・別府次郎・奈良三郎・玉井四郎・長井斉藤別当実盛・同三郎実員、横山に悪次・悪五、平山に相原、児玉に庄の太郎・同次郎、猪俣に岡部六弥太、村山に金子十郎家忠・山口十郎・仙波七郎、高家に河越・師岡・秩父武者、上総には介の八郎弘経、下総には千葉介経胤、上野には瀬下太郎・物射五郎・岡本の介・名波太郎、下野には八田四郎・足利太郎、常陸には中宮三郎・関次郎、甲斐には塩見五郎・同六郎、信濃には海野・望月・諏方・蒔・桑原・安藤・木曾中太・弥中太・根井の大矢太・根津神平・静妻小次郎・方切小八郎大夫・熊坂四郎を始として、三百余騎とぞしるしたる。
清盛にあひしたがふ人々には、弟の常陸守頼盛・淡路守敦盛・大夫経盛・嫡子中務少輔重盛・次男安芸判官基盛、郎等には、筑後の左衛門家貞・其子左兵衛尉貞能・与三兵衛景安・民部太夫為長・其子太郎為憲、河内国には草苅部十郎太夫定直・瀧口家綱・同瀧口太郎家次、伊勢国には古市伊藤武者景綱・同伊藤五忠清・伊藤六忠直、伊賀国には山田小三郎惟之、備前国住人難波三郎経房、備中国住人瀬尾太郎兼康を始として、六百余騎とぞしるしたる。
兵庫頭頼政に相随兵誰々ぞ。先渡辺党に省播磨次郎・授薩摩兵衛・連源太・与右馬允・競瀧口・丁七唱を始として、二百騎計也。
佐渡式部太夫重成百騎、陸奥新判官義康百騎、出羽判官光信百騎、周防判官季員五十騎、隠岐判官惟重七十余騎、平判官実俊六十余騎、進藤判官助経五十余騎、和泉左衛門尉信兼八十余騎、都合一千七百余騎とぞしるしたる。