白河殿には、かくともしろしめさゞりしかば、左大臣殿、武者所の親久をめされて、「内裏の様みてまいれ。」と仰けれど、親久即はせかへり、「官軍既によせ候。」と申もはてねば、先陣すでに馳来る。其時鎮西の八郎申けるは、「為朝が千度申つるは、爰候、<。」といかりけれ共、力及ばず。為朝をいさませんためにや、俄に除目おこなはれて、安弘蔵人たるべき由仰けり。八郎、「是は何と云事ぞ。敵すでに寄来るに、方々の手分をこそせられんずれ、只今の除目、物怱也。人々は何にも成給へ、為朝は今日の蔵人とよばれても何かせん。只もとの鎮西の八郎にて候はん。」とぞ申ける。
去程に下野守義朝は、二条を東へ発向す。安芸守清盛も、同じくつゞひてよせけるが、明れば十一日、東塞なる上、朝日に向(っ)て弓引かん事恐ありとて、三条へ打下り、河原を馳わたして、東の堤を北へ向(っ)てぞあゆませける。下野守は、大炊御門河原に、前に馬の懸場を残して、川より西に、東頭にひかへたり。
新院の御所にも、敵すでに西南の川原に時を作(っ)て責来れば、為義已下の武士、各かためたる門々より懸出けり。判官が手には、四郎左衛門頼賢と八郎為朝と、先陣をあらそひて、すでに珍事に及ばんとす。頼賢思ひけるは、「今子共の中には、我こそ兄なれば、今日の先陣をば誰かはかけん。」といふ。為朝は又、「おそらくは弓矢取(っ)ても、打物取(っ)ても、我こそあらめ。其上判官も軍の奉行を仕らせらるゝ上は、我こそ先陣を懸め。」と論じけるが、暫思案して、兄達をもないがしろにするえせものとて、親に不孝せられしが、適勘当ゆりたる身の、父の前にて兄と先を論ぜん事、あしかりなんと思ひければ、「所詮誰々も懸させ給へ。強からん所をば、幾度も承(っ)て支へ奉らん。」とぞ申ける。
四郎左衛門是をきゝもとがめず、則西の河原へ出向ふ。紺村子の直垂に、月数と云鎧の、朽葉色の唐綾にておどしたるをき、廿四差たる大中黒の矢、頭高に負なし、重藤の弓真中取(っ)て、月毛なる馬に鏡鞍をいてぞ乗(っ)たりける。大炊御門を西へ向(っ)て防けるが、「爰をよするは源氏歟平家か、名のれきかん。角申は、六条判官為義が四男、前左衛門尉頼賢。」とぞ名乗ける。川向に答ていはく、「下野守殿の郎等に、相模国の住人、山内の須藤刑部丞俊通子息、瀧口俊綱、先陣を承(っ)て候。」と申せば、「さては一家の郎等ごさんなれ。汝を射るにあらず大将軍を射る也。」とて、河越に矢二はなつ。夜中なれば誰とはしらず、矢面に進だる者二騎射おとされぬ。四郎左衛門も、内甲を射させて引退く。下野守は、矢合に郎等を射させて、やすからず思はれければ、既にかけんとし給へば、鎌田次郎正清、轡に取付て、「爰は大将軍の懸させ給ふ所にて候はず。千騎が百騎、々々が十騎に成てこそ、打も出させ給はめ。」と申けれども、猶かけんとし給ふ間、歩立の兵、八十余人有けるをまねきよせて、此由をいひふくめ、大将を守護せさせ、正清馬に打乗(っ)て真先にこそすゝみけれ。
安芸守は、二条河原の川より東、堤の西に、北へ向(っ)てひかへたり。その勢の中より、五十騎計先陣にすゝんで推よせたり。「爰をかため給ふは誰人ぞ、名のらせ給へ。かう申は、安芸守殿の郎等に、伊勢国の住人、古市伊藤武者景綱、同伊藤五・伊藤六。」とぞ名乗ける。八郎是をきゝ、「汝が主の清盛をだにあはぬ敵と思ふなり。平家は柏原の天皇の御末なれども、時代久しく成下れり。源氏は誰かはしらぬ。清和天皇より為朝までは九代也。六孫より七代、八幡殿の孫、六条の判官為義が八男、鎮西八郎為朝ぞ。景綱ならば引しりぞけ。」とぞの給ひける。景綱、「昔より源平両家天下の武将として、違勅の輩を討に、両家の郎等、大将射る事、互に是あり。同郎等ながら、公家にもしられまいらせたる身也。其故は、伊勢国鈴鹿山の強盗の張本、小野の七郎をからめて奉り、副将軍の宣旨をかうぶりし景綱ぞかし。下臈の射矢、立歟たゝぬか御覧ぜよ。」とて、能引ていたれども、為朝是を事ともせず、「あはぬ敵と思へ共、汝が詞のやさしさに、箭一つたばん。請て見よ。且は今生の面目、又は後生の思出にもせよ。」とて、三年竹の節近なるを少をしみがきて、山鳥の尾をも(っ)て作だるに、七寸五分の円根の、箆中過て、箆代のあるを打くはせ、しばしたも(っ)て兵ど射る。眞前に進だる伊藤六が、胸板・押付かけず射とをし、余る矢が、伊藤五が射向の袖にうらかひてぞ立(っ)たりける。六郎は矢場に落て死にけり。
伊藤五、此矢を折かけて、大将軍の前に参(っ)て、「八郎御曹司の矢御覧候へ。凡夫の所為とも覚候はず。六郎すでに死候ぬ。」と申せば、安芸守を始て、此矢を見る兵ども皆舌を振(っ)てぞおそれける。景綱申けるは、「彼先祖八幡殿、後三年の合戦の時、出羽国金沢の城にて、武則が申けるは君の御矢に当る者、鎧・冑を射とをされずと云事なし、抑、君の御弓勢を、たしかにおがみ奉らばやと望ければ、義家革よき鎧三領重て、木の枝に懸て、裏表六重を射とをし給ひければ、鬼神の変化とぞ恐ける。是より弥兵共帰伏しけりと、申つたへてきく計なり。眼前にかゝる弓勢も侍るにや。あなおそろし。」とぞおぢあへる。
かく口々にいはれて、大将のたまひけるは、「必清盛が此門を承(っ)て向ふたるにもあらず、何となく押よせたるにてこそあれ。いづ方へもよせよかし。さらば東の門か。」とあれば、兵皆、「それも此門ちかく候へば、もし同人やかためて候らむ。只北の門へむかはせ給へ。」といへば、「さもいはれたり。今は程なく夜も明なんず。然ば小勢に大勢が懸立られんもみぐるしかりなん。」とて引退く所に、嫡子中務少輔重盛、生年十九歳、赤地の錦の直垂に、澤潟威の鎧に、白星の冑を著、廿四指たる中黒の矢負、二所藤の弓持(っ)て、黄河原なる馬に乗、進出て、「勅命を蒙(っ)て罷向たる者が、敵陣こはしとて、引返すやうや有べき。つゞけや、若者共。」とて、又懸出られけるを、清盛是をみて、「有べうもなし。あれ制せよ、者ども。為朝が弓勢はめに見えたる事ぞ。あやまちすな。」と宣ひければ、兵共前に馳ふさがりければ、力なく京極をのぼりに、春日面の門へぞよせられける。
爰に安芸守の郎等に、伊賀国の住人、山田小三郎伊行と云は、又なき剛の者、片皮破の猪武者なるが、大将軍の引給ふをみて、「さればとて、矢一筋におそれて、向たる陣を引事や有。縦筑紫の八郎殿の矢なりとも、伊行が鎧はよもとをらじ。五代伝へて軍にあふ事十五ヶ度、我手に取(っ)ても度々おほく矢共を請しかど、未裏をばかゝぬ物を。人々見給へ、八郎殿の矢一つ請て、物語にせん。」とて懸出れば、「おこの高名はせぬにはしかず。無益なり。」と同僚ども制すれ共、本よりいひつる詞をかへさぬ男にて、「夜明て後に傍輩の、八郎の、いで矢目見んといはんには、何とか其時答べき。然ば日来の高名も、消なん事の無念なれば、よし<人はつゞかずとも、をのれ証人に立べし。」とて、下人独相具して、黒皮威の鎧に、同毛の五枚冑を猪頸に着、十八さいたる染羽の矢負、塗籠藤の弓持て、鹿毛なる馬に黒鞍をいてぞ乗(っ)たりける。門前に馬を懸すへ、「物其者にはあらね共、安芸守の郎等、伊賀国の住人、山田小三郎伊行、生年廿八、堀河院の御宇、嘉承三年正月廿六日、対馬守義親追討の時、故備前守殿の眞前懸て、公家にもしられ奉(っ)たりし山田の庄司行末が孫なり。山賊・強盗をからめとる事は数をしらず、合戦の場にも度々に及で、高名仕(っ)たる者ぞかし。承及八郎御曹司を一目見奉らばや。」と申ければ、為朝、「一定きやつは、引まふけてぞ云らん。一の矢をば射させんず。二の矢をつがはん所を射落さんず。同くは矢のたまらん所を、わが弓勢を敵にみせん。」と宣ひて、白蘆毛なる馬に、黄覆輪の鞍をいて乗(っ)たりけるが、かけ出て、「鎮西の八郎是にあり。」と名乗給ふ所を、本より引まふけたる矢なれば、絃音たかく切(っ)て放つ。御曹司の弓手の草摺を、ぬいざまにぞ射切(っ)たる。一の矢を射損じて、二の矢をつがふ所を、為朝能引て兵どいる。山田小三郎が鞍の前輪より、鎧の前後の草摺を尻輪懸て、矢先三寸余ぞ射通したる。しばしは矢にかせがれて、たまるやうにぞ見えし。則弓手の方へ眞倒に落れば、矢尻は鞍にとゞま(っ)て、馬は河原へはせ行ば、下人つとはしりより、主を肩に引(っ)懸て、御方の陣へぞ帰りける。寄手の兵是を見て、弥、此門へむかふ者こそなかりけれ。