さる程に夜もやう<明行に、主もなきはなれ馬、源氏の陣へ懸入たり。鎌田次郎是をとらせてみるに、鞍つぼに血たまり、前輪は破て、尻輪に鑿のごとくなる矢尻とまれり。是を大将軍にみせ奉(っ)て、「今夜筑紫の御曹司の、あそばされて有げに候。あないかめしの御弓勢や。」と申ければ、義朝、「八郎は今年十八九の者にてこそあれ。未力もかたまらじ。それは敵をおどさんとて、作りてこそはなしけめ。それには臆すべからず。汝向(っ)て一当あてて見よ。」と宣へば、「さ承候。」とて、正清百騎計にて推よせて、「下野守の郎等、相模国の住人、鎌田次郎正清。」と名乗ければ、「さては一家の郎従ごさんなれ。大将軍の失おもてをば引しりぞけ。」との給へば、「本は一家の主君なれども、今は八逆の凶徒なり。違勅の人々射取(っ)て、高名せよや、者共。」といひもはてず、能引て放つ失が、御曹司の半頭にからりと当(っ)て、甲のしころに射つけたり。為朝余に腹をたてゝ、此矢を、かいかなぐつてなげ捨て、「をのれ程の者をば、矢だうなに、手取にせん。」とて懸給へば、須藤九郎家末・悪七別当已下、例の廿八騎ぞ続きたる。正清叶はじとや思けん、百騎の勢を引具して、河原を下りに二町ばかり、ふるひ<逃たりける。御曹司は弓をば脇にかいはさみ、大手をひろげて、「どこまで<。」とおはれけるが、「さのみ長追なせそ。判官殿は、心こそたけくおはすとも、年老給ぬ。残の人々は口はきゝ給へども、さのみ心にくからず。小勢にて門やぶらるな。かへせや。」とて引返す。
鎌田は、河原を西へひかば、大将の陣の前、敵の追かけんもあしかりなんと思ひて、眞下りに逃たりけるが、敵引(っ)返すと見てければ、河をすぢかへに馳わたして、「のがれ参(っ)て侯。坂東にて多の軍にあひて侯共、これ程軍立はげしき敵にいまだあはず侯。いかづちなどの落かゝらんは、事の数にも候はじ。」と申ければ、義朝、「それは聞ゆる者と思て、おづればこそはさあるらめ。八郎は筑紫そだちにて、船の中にて遠矢を射、歩立などはしらず、馬上の態は、坂東武者には、争か及ばん。馳ならべてくめや、者共。」と下知せられければ、相模国の住人、須藤刑部丞俊通・其子瀧口俊綱・海老名源八季定・秦野次郎延景等を始として、二百余騎にて迫(っ)懸たり。為朝、法庄厳院の西裏にて返し合て、火出る程ぞ戦たる。
大将は、赤地の錦の直垂に、黒糸威の鎧に、鍬形打(っ)たる冑を着、黒馬に黒鞍置て乗(っ)たりけり。鐙ふんばり、つ(っ)立上り、大音あげて、「清和天皇九代の後胤、下野守源義朝、大将軍の勅命を蒙(っ)て罷向。もし一家の氏族たらば、すみやかに陣を開て退散すべし。」とぞ宣ひける。為朝きゝもあへず、「厳親判官殿、院宣を蒙給て、御方の大将軍たる其御代官として、鎮西八郎為朝、一陣を承(っ)てかためたり。」とぞ答ける。義朝重て、「さてははるかの弟ごさんなれ。汝、兄に向(っ)て弓ひかん事冥加なきにあらずや。且は宣旨の御使なり。礼儀を存ぜば、弓をふせて降参仕れ。」とぞ申されける。為朝又、「兄に向(っ)て弓をひかんが冥加なきとは埋り也。正しく院宣を蒙(っ)たる父に向(っ)て弓引給ふはいかに。」と申されければ、義朝道理にやつめられけん、其後は音もせず。武蔵・相模のはやりおの物どもが、ま(っ)しぐらに打(っ)てかゝるを、為朝しばし支て防けるが、敵は大勢なり、懸隔られては判官のためあしかりなんと思て、門の中へ引退く。敵是をみて、防かねて引とや思ひけん、勝に乗(っ)て門のきはまで責付て、入かへ<もみたりけり。爰に為朝、敵の勢越に見れば、大将義朝、大の男の大きなる馬には乗(っ)たり、人にすぐれて軍下知せんとて、つ(っ)立上りたる内冑、まことに射よげに見えければ、ねがふ所の幸得たりとよろこびて、件の大矢を打くはせ、只一矢に射落さんと打上けるが、まてしばし、弓箭取の謀、「汝は内の御方へ参れ。我は院方へ参らん。汝まけばたのめ。助けん。我負なば、なんぢをたのまん。」など約束して、父子立わかれてかおはすらむと思案して、はげたる矢をさしはづす、遠慮の程こそ神妙なれ。すべて八郎の矢にあたる者、たすかる者ぞなかりける。されば罪つくりとや思はれけん、名乗て出る者ならでは、左右なく射給はざりけり。
長井斉藤別当実盛・弟の三郎実員・片切小八郎太夫景重・須藤瀧口已下宗徒の兵、責入々々戦ひければ、悪七別当・手取の与次・高間三郎・同四郎・吉田太郎已下、爰を前途と防ぎけり。片切八郎太夫に、手取与次ぞ懸合ける間、与次は若武者也、景重は老武者なる上、戦ひつかれて既にあぶなう見えける所を、秩父行成馳あはせて、能引てはなつ失に、与次が妻手の草摺のはづれを射させて引退けば、景重勝に乗(っ)てぞ懸入ける。御曹司、須藤九郎をめして、「敵は大勢也。若矢種つきて打物にならば、一騎が百騎に向ふ共、つゐには叶まじ。坂東武者の習、大将軍の前にては、親死に子うたるれどもかへりみず、いやが上に死重てたゝかふとぞきく。いざさらば、大将に矢風をおほせて引しりぞかせんと思ふはいかに。」とのたまへば、家末、「然べう候。但御あやまちや候はん。」と申ければ、「何条さる事有べき。為朝が手本はおぼゆる物を。」とて、例の大矢を打くはせ、しばしかためて兵ど射る。思ふ矢つぼをあやまたず、下野守の冑の星を射けづりて、余る矢が法庄厳院の門の方立に、箆中せめてぞ立(っ)たりける。其時義朝、手綱かいくり打向ひ、「汝は聞及にも似ず、無下に手こそあらけれ。」との給へば、為朝、「兄にてわたらせ給ふ上、存ずる旨有てかうは仕(っ)たれ共、まことに御ゆるしを蒙らば、二の矢を仕らん。眞向・内冑は恐も候。障子の板歟、栴檀、弦走歟、胸板の眞中か、草摺ならば、一の板とも二の板共、矢つぼを慥に承(っ)て、二の矢を仕らん。」とて、既に箭取(っ)てつがはれける所に、上野国住人、深巣の七郎清国、つと懸よせければ、為朝是を弓手に相請てはたと射る。清国が冑の三の板よりすぢかへに、左の小耳の根へ、箆中計射こまれたれば、しばしもたまらず死にけり。須藤九郎落合て、深巣が頸をば取(っ)てけり。
是をも事ともせず、我さきにと懸ける中に、相模国住人、大庭平太景能・同三郎景親、眞前に進で申けるは、「八幡殿、後三年の合戦に、出羽国金澤の城を責給し時、十六歳にして軍の眞前懸、鳥の海の三郎に左の眼を冑の鉢付の板に射付られながら、当の矢を射返して、其敵をとりし、鎌倉の権五郎景正が末葉、大庭平太景能、同三郎景親。」とぞ名乗(っ)たる。御曹子是をきゝ給ひ、「西国の者共には、皆手なみの程を見せたれども、東国の兵にはけふはじめの軍也。征矢をば度々に射たりしが、鏑矢にて射ばや。」と思ひて、目九つさしたる鏑の、目桂にはかどをたて、風かへしあつくくらせて、金巻に朱さしたるが、普通の蟇目程なるに、手前六寸しのぎをたてゝ、前一寸には、峯にも刃をぞ付たりける。鏑より上、十五束有けるを取(っ)てつがひ、ぐつさと引て放されたれば、御所中にひゞきて長なりし、五六段計にひかへたる大庭平太が左の膝を、かた手切に力革懸てふつと射きり、馬の太腹かけずとをれば、かぶらはくだけてちりにけり。馬は屏風をたをすごとく、がはとたふるれば、主は前へぞあまされける。敵に首をとられじと、弟の三郎馬より飛おりて、兄を肩に引(っ)かけて、四五町ばかりぞ引たりける。
武蔵国住人、豊嶋四郎も、須藤九郎に弓手の太股を射させ、安房国住人、丸太郎も、鬼田与三に脇立ゐさせて引しりぞく。中条新五・新六・成田太郎・箱田次郎・奈良三郎・岩上太郎・別府次郎・玉井三郎以下、入替<責戦。各分取し、皆手負て引退処に、黒革威の鎧、高角打(っ)たる甲を着、糟毛なる馬に乗、悪七別当と名乗(っ)て懸出たり。海老名源八馳合てたたかひけるが、草摺のはづれを射させてひるむ所を、斉藤別当すきまもなく懸よせたれば、悪七別当、太刀を抜て、斉藤が冑の鉢を丁どうつ。うたれながら実盛、内冑へ切前上りに打こみければ、あやまたず悪七別当が頸は前にぞ落たりける。実盛此頸を取(っ)て、太刀のさきにつらぬきさしあげて、「利仁将軍十七代後胤、武蔵国住人、斉藤別当実盛、生年卅一、軍をばかうこそすれ。我と思はん人々は、寄合や<。」とぞよばゝりける。
金子十郎は、重目結の直垂に、節縄目の鎧きて、鹿毛なる馬に黒鞍置て乗(っ)たるが、失種は皆射尽して、太刀を抜て眞向にあて、「武蔵国住人、金子十郎家忠、十九歳、軍は今日ぞ始なる。御曹司の御内に、我と思はん兵は、出合や。」とぞ名乗(っ)たる。八郎のたまひけるは、「にくゐ剛の者哉。我矢頃に寄てひかへたり。只一矢に射おとさんと思へ共、余にやさしければ、誰か有、あれ引(っ)さげてこよ。一目見ん。」とありしかば、木蘭地の直垂に、紫革の腹巻き、栗毛なる馬に乗、「高間四郎。」と名乗(っ)て懸出で、をしならべて組でおつ。高間は兄弟共にきこゆる大力なるを、家忠上に成(っ)て、をさへて首をかゝんとする所に、高間三郎落重(っ)て、弟をうたせじと、金子が冑を引あふのけ、首をかゝんとしけるを、下なる敵の左右の手を膝にてしきつめ、上なる敵の弓手の草摺引上より返て、柄もこぶしもとをれ<と、三刀さしてひるむ所に、下なる敵の首を取、太刀のさきにさし上て、「此比、鬼神と聞え給ふ筑紫の御曹司の御前にて、高間四郎兄弟をば、家忠討取(っ)たり。」とぞよばゝりける。家末是をみて、安からず思ひければ、射おとさんとて迫懸ける所を、八郎、「いかに須藤、あたら兵を、たすけてをけ。今度の軍に討勝なば、為朝が郎等にせんずるぞ。」とこそ宣ひけれ。金子余に剛なれば、軍神にや守られけん、又なき高名し、きはめて不思議の命助かりて、大将までぞほめられける。
常陸国住人中宮三郎、同国住人関次郎、村山党には山口六郎・仙波七郎、轡をならべてかけ入ば、三町礫紀平次大夫・大矢新三郎已下防ぎ戦けるが、新三郎は仙波七郎に弓手の肩きられ、紀平次大夫は、山口六郎に右のうで打落されて引(っ)返す。美濃国住人平野平太、同国住人吉野太郎と名乗(っ)て懸入ける所を、御曹司件の大鏑をも(っ)て兵ど射給ふが、高紐(ひも)に弦やせかれけん、思ふ矢つぼに下りつつ、平野平太が左の臑当を射切られて、馬の太腹あなたへつとゐとをさるれば、眞倒にたうれたり。甲斐国住人塩見五郎も射ころされ奉りければ、大将もこれらをみ給ひて、少せめあぐんでぞ思はれける。其時、信濃国住人根井大弥太、藍摺の直垂に、卯花綴の鎧に、星白の甲をき、駁なる馬に乗(っ)たるが、進出申けるは、「軍に人のうたるゝとて、敵に息をつがせんには、いつか勝負を決すべき。其上我らは餌をもとむる鷹のごとし。凶徒は鷹に恐るる雉にあらずや。いざやかけん殿原。」とて、眞前に進めば、つゞく兵誰々ぞ。同国の住人、宇野太郎・望月三郎・諏方平五・進藤武者・桑原安藤次・安藤三・木曾中太・弥中太・根津神平・志妻小次郎・熊坂四郎を始として、廿七騎ぞ懸たりける。門の内へ責入(っ)て、さん<”に戦ければ、手取の与次・鬼田与三・松浦小次郎もうたれにけり。すべて為朝のたのみ思はれたる廿八騎の兵、廿三人うたれて、大略手をぞ負たりける。寄手も究竟の兵五十三騎討れて、七十余人手負たり。敵魚鱗に懸破らんとすれば、御方鶴翼につらな(っ)て射しらまかす。御方陽に開きてかこまんとすれ共、敵陰にとぢてかこまれず。黄石公がつたふる所、呉子・孫子が秘する所、互に知(っ)たる道なれば、敵もちらず御方もひかず。されば千騎が十騎に成までも、はてつべき軍とは見えざりけり。
兵庫頭頼政の手にも、渡辺党に、省・授・連の源太・競瀧口を始として、東の門へ押よせて、もみにもうでせめ入ば、平馬助忠正・多田蔵人大夫頼憲、爰を先途と防ぎ戦ふ。西門をば、六条判官為義、張絹の直垂に、薄金と云緋威の鎧に、鍬形打(っ)たる冑をき、連銭蘆毛なる馬に、白覆輪の鞍置てぞのられたる。五人の子共前後に立(っ)て懸出たる体、あ(っ)ぱれ大将軍やとぞ見えたりける。其外自余の陣々にも、互に入みだれ、追つ返ひてたゝかひけれ共、未勝負ぞなかりける。其時義朝、使者を内裏へまいらせて、「夜中に勝負を決せんと、もみにもうで貴候へども、敵もかたくふせいで破がたく候。今は火を懸ざらん外は利有べし共覚え候はず。但法勝寺なども風下にて候へば、伽藍の滅亡にや及候はんずらん。其段勅定に随べし。」と申上られたりしかば、少納言入道承(っ)て、「義朝誠に神妙也。但、君のきみにてわたらせ給はゞ、法勝寺程の伽藍をば則時に建立せらるべし。ゆめ<それにおそるべからず。只急速に凶徒誅戮の謀をめぐらすべし。」と仰下されければ、御所より西なる藤中納言家成卿の宿所に火を懸しかば、西風はげしき境節にてはあり、即院の御所へ猛火おびたゝしく吹かけたれば、院中の上臈女房・女童、方角をうしな(っ)て、よばゝりさけんでまにひあへるに、武士も是が足手まとひにて、進退さらに自在ならず、落行人の有様は、嶺の嵐にさそはるゝ冬の木葉にことならず。