保元物語 - 26 為義最後の事

 さる程に、為義法師が首をはぬべき由、左馬頭に宣ひくだされければ、なだめをくべきむね、様々に両度まで奏聞せられけれども、主上逆鱗有て、清盛既に伯父を誅す、何ぞ緩怠せしめん、甥猶し子のごとしといへり、伯父豈父にことならんや、すみやかに誅致すべし、若猶違背せしめば、清盛已下の武士に仰付らるべき由、勅定重かりしかば、力なく涙ををさへて、鎌田次郎に宣ひけるは、「綸言かくのごとし。是によ(っ)て判官殿を討奉らば、五逆罪の其一を犯すべし。罪に恐て宣旨をそむかば、忽に違勅の者となりぬべし。いかゞすべき。」とありしかば、正清畏(っ)て、「申に恐候へ共、をろかなる事を御定候者かな。私の合戦にうち奉らせ給はんこそ、其咎も候はんずれ。其上観経には、劫初より以来、父を殺す悪王一萬八千人なりといへども、未母をころす者なしととかれて候。それは諸の悪王の、国位をうばはんとての為也。是は朝敵となり給へば、つゐにはのがるまじき御身なり。縦御承にて候はずとも、時日をめぐらすべき御命ならぬに取(っ)ては、御方に候はせ給ひながら、人手に懸て御覧候はんより、同くは御手にかけまいらせて、後の御孝養をこそ能々せさせ給はんずれ。なにかくるしく候べき。」と申せば、「さらば汝はからへ。」とて、なく<内へ入給ふ。
 則鎌田、入道の方に参り、「当時都には平氏の輩、権威を取(っ)て、守殿は、石の中の蛛とやらんのやうにておはしませば、東国へ下らせ給ひ候也。判官殿は先立奉らんとて、御迎にまいらせられて候。」とて、車さしよせたれば、「さらば今一度八幡へ参(っ)て御暇乞申べかりし物を。」とて、南の方をおがみて、やがてくるまに乗給ふ。七条朱雀に白木の輿をかきすへたり。是は車よりのりうつり給はん所を討奉らむ支度也。其時秦野次郎延景、鎌田に向(っ)て申けるは、「御辺のはからひあやまれり。人の身には一期の終をも(っ)て一大事とせり。それをやみ<と殺し奉らん事、情なく侍り。只ありのまゝにしらせ奉(っ)て、最後の御念仏をもすゝめ申され、又仰をかるべき御事もなどかはなかるべき。」といへば、正清、「尤然るべし。物を思はせまいらせじと存じて、かやうにはからひたれ共、誠にわが誤なり。」と申ければ、延景参て、「実には関東御下向にては候はず。守殿宣旨を承(っ)て、正清太刀取にて、うしなひまいらすべきにて候。再三なげき御申候しかども、勅定おもく候間、力なく申付られ候。心しづかに御念仏候べし。」と申たりしかば、「口惜き哉。為義ほどの者を、たばからず共討せよかし。縦綸言重くして、助くる事こそ叶はず共、など有のまゝにはしらせぬぞ。又誠にたすけんと思はゞ、我身に替てもなどか申なだめざるべき。義朝が入道をたのみて来りたらんをば、為義が命にかへてもたすけてん。されば諸仏念衆生、衆生不念仏、父母常念子、々不念父母と説たれば、親のやうに子は思はぬ習なれば、義朝ひとりが咎にあらず。只うらめしきは此事を、始よりなどしらせぬぞ。」とて、念仏百返計となへつゝ、さらにいのちをおしむ気色もなく、「程へば定て為義首きる見んとて、雑人なども立こむべし。とく<きれ。」とのたまへば、鎌田次郎、太刀を抜てうしろへめぐりけるが、相伝の主の頸をきらん事心うくて、涙にくれて太刀のあてどもおぼえねば、もちたる太刀を人にあたふ。其時、「願諸同法者、臨終正念仏、見弥陀来迎、往生安楽国。」ととなへて、高声に念仏数遍申して、つゐにきられ給ひにけり。首実検の後、義朝に給(っ)て、孝養すべきよし仰下されければ、正清是を請取て、円覚寺におさめ、墓をたて壇をつき、卒都婆などを造立せられて、様々の孝養をぞ致されける。此為義は思ひ者おほかりければ、腹々に男女の子ども四十二人ぞありける。或は熊野の別当のよめになし、あるひは住吉の神主にやしなはせなどして、これかれにぞをきける。
 昨日、官使能景に仰て、多田蔵人大夫頼憲、正親町富小路の家を追捕せられけるに、頼憲が郎等四五人、未家に有しかば、命も惜まず散々に戦ひける間、能景が兵おほくうたれ、疵を蒙て引退く。其ひまに屋に火をかけ、煙の中にて皆自害してけり。今日十九日、源平七十余人、首をきられけるこそあさましけれ。
 中院左大臣雅定入道、大宮大納言伊通卿、東宮大夫宗能卿、左大弁宰相顕時卿など申されけるは、「昔、嵯峨天皇の御時、左兵衛督仲成を誅せられしよりこのかた、久しく死罪をとゞめらる。よ(っ)て一条院の御宇、長徳に内大臣伊周公并に権中納言高家卿の、花山院を討奉りしかば、罪既に斬刑にあたる由、法家の輩かんがへ申しかども、死罪一等を減じて、遠流の罪になだめらる。今改て死刑をおこなはるべきにあらず。就中、故院御中陰也。旁なだめらればよろしかるべき。」よし、各一同に申されけれ共、少納言入道信西、内々申けるは、「此義然るべからず。おほくの凶徒を諸国へわけつかはされば、定而猶兵乱の基なるべし。其上非常の断は、人主専にせよと云文有。世の中につねにあらざる事は、人主の命に随と見えたり。若重てひがごと出来りなば、後悔なんぞ益あらん。」と申ければ、みなきられにけり。
 誠に国に死罪をおこなへば、海内に謀叛の者絶ずとこそ申に、おほくの人を誅せられけるこそあさましけれ。正しく弘仁元年に、仲成を誅せられてより、帝皇廿六代、年記三百四十七年、絶たる死刑を申おこなひけるこそうたてけれ。中にも義朝に父をきらせられし事、前代未聞の儀にあらずや。且は朝家の御あやまり、且は其身の不覚也。勅命そむきがたきによ(っ)て、是を誅せば忠とやせん、信とやせん、若忠なりといはゞ、「忠臣をば孝子の門にもとむ。」といへり。若又信といはゞ、「信をば義にちかくせよ。」といへり。義を背て何ぞ忠信にしたがはん。されば本文にいはく、「君は至(っ)て尊けれども、至(っ)てちかゝらず。母はいた(っ)てしたしけれ共、いた(っ)てた(っ)とからず。父のみ尊親の義をかねたり。」と。知ぬ、母よりも貴く、君よりもしたしきは只父也。いかゞ是を殺さんや。孝をば父にとり、忠をば君にとる。若忠を面にして父をころさんは、不孝の大逆、不義の至極也。されば、「百行の中には孝行をも(っ)て先とす。」といひ、又、「三千の刑は不孝より大なるはなし。」といへり。其上、大賢の孟、喩を取(っ)ていはく、「虞舜の天子た(っ)し時、其父瞽腴人を殺害する事あらんに、時の大理なれば、皐陶是をとらへて罪を奏せん時、舜はいかがし給ふべき。孝行無双なるをも(っ)て天下をたもてり。政道正直なるを舜の徳といふ。然るに正しく大犯をいたせる者を、父とて助けば政道をけがさん。天下は是一人の天下にあらず。もし政道をたゞしくして刑をおこなはゞ、又忽に孝行の道に背かん。明王は孝をも(っ)て天下をおさむ。しかれば、只父を置て位をすてゝさらまし。」とぞ判ぜる。況や義朝の身にをひてをや。誠にたすけんと思はんに、などか其道なかるべき。恩賞に申替るとも、縦我身をすつるとも、争かこれをすくはざらん。他人に仰付られんには、力なき次第也。まことに義にそむける故にや、無双の大忠なりしかども、ことなる勧賞もなく、結句いく程なくして、身をほろぼしけるこそあさましけれ。

保元物語 - 27 義朝の弟ども誅せらるる事