保元物語 - 30 左大臣殿の御死骸実検の事

 さる程に、廿一日午の刻ばかりに、瀧口三人、官使一人、南都へ趣き、左府の死骸を実検す。瀧口は資俊・師光・能盛也。官使は左史生中原師信也。其所は、大和国添上郡河上の村般若野の五三昧なり。道より東へ一町計入て、実成得業が墓の東にあたらしきはかありけるを、ほりおこしてみれば、骨は未相つらな(っ)て、しゝむらすこし有けれども、其形ともみえわかず。其まゝ道のほとりにうちすてゝかへりにけり。
 廿二日左大臣の公達四人、嫡男右大将兼長・次男中納言師長、同年にてともに十九歳也。三男左中将隆長十六歳、四男範長禅師十五にぞ成給ふ。各心を一にして、祖父富家殿に申されけるは、「おとゞもおはせず、何の頼みあ(っ)てか、角ても侍らん。今度の罪聊かも、なだめらるべからずと承る。殊におとゞは罪ふかくましませば、其子共は皆死罪にこそおこなはれんずらめ。命のあらん事も、いつをかぎりともしらねども、身の暇を給(っ)て出家をとげ、もし露の命きえやらずは、一向にまことの道に入(っ)て、先考の御菩提をもとぶらひ奉らん。昨日勅使、大臣の御墓に向(っ)て、死骸をほりおこして路頭に捨をくと云々。心うしとも申ばかりなし。亡父是ほどのめをみ給ふに、其子、男として、ふたゝび人に面をあはすべしとも覚ず。」と宣へば、入道殿は、「明日の事をばしらね共、只今までもかくておはすれば、それを頼みてこそ侍るに、みな<さやうに成給はゞ、何に心をなぐさめん。世には不思議の事もこそあれ、いかなるありさまにても、今一度朝庭につかへて、父の跡をつがんとはおぼさぬか。なのめならず此世に執深かりし人なれば、なき跡までもさこそは思はめ。さすが死罪まではよもあらじ。縦ひとおき国遙かの嶋にうつされたり共、運命あらばはからざるほかの事もありなん。漢の孝宣皇帝は禁獄せられしかども、帝運あれば、獄より出て位につきにけり。右大臣豊成、太宰帥にうつされたりけれども、帰京をゆるされてふたゝび摂政の位にいたれり。かゝるためしもあるぞかし。春日大明神すてさせ給はずは、などか頼みもなからん。」と、仰られもあへずなき給ふこそあはれなれ。然れば此御心をやぶらんも不孝とやおぼしけん、左右なく出家もし給はず。

保元物語 - 31 新院讃州に御遷幸の事并びに重仁親王の御事