保元物語 - 31 新院讃州に御遷幸の事并びに重仁親王の御事

 今日、蔵人左少弁資長、綸言を承(っ)て仁和寺へ参り、明日廿三日、新院を讃岐国へうつし奉るべきよしを奏聞す。院も都を出させ給ふべき由をば、内々きこしめしけれ共、けふあすとはおぼしめさゞる所に、まさしく勅使参て事さだまりしかば、御心ぼそく思食けるあまりに、かくぞ口ずさび給ける。
 都にはこよひばかりぞすみの江のきしみちおりぬいかでつみ見ん
 夜に入て新院の一の宮を、「父のおはします時、何様にも成奉れ」とて、花蔵院の僧正寛暁が坊へわたしたてまつる。御供には右衛門大史章盛・左兵衛尉光重也。僧正しきりに辞し申されけれども、勅定そむきがたくして請取奉らる。既に御出家ありしかば、年来日比、春宮にも立、位にもつかせ給はんとこそ待奉るに、角思ひの外に御飾りををろす事のかなしさよと、付まいらせたる女房達、なきかなしむぞあはれなる。此宮は、故刑部卿忠盛朝臣、御乳人にてありしかば、清盛・頼盛はみはなち奉るまじけれども、余所になるこそあはれなれ。明れば廿三日、未夜深に、仁和寺を出させ給ふ。美濃前司保成朝臣の車をめさる。佐渡式部太夫重成が郎等ども、御車をさしよせて、先女房たち三人を御車にのせ奉る。其後、仙院めされければ、女房達、声をとゝのへて泣かなしみ給ふ。誠に日比の御幸には、ひさしの車を庁官などのよせしかば、公卿・殿上人、庭上におりたち、御随身左右につらなり、官人・番長、前後にあゆみしたがひしに、これはあやしげなる男、或は甲冑をよろふたる兵なれば、めもくれ心もまよひて、なきかなしむもことはり也。夜もほの<”とあけゆけば、鳥羽殿を過させ給とて重成をめされて、「田中殿へ参て、故院の御墓所をおがみ、今を限のいとまをも申さんと思ふはいかに。」と仰下されければ、重成かしこま(っ)て、「やすき御事にては候へ共、宣旨の刻限うつり候なば後勘いかゞ。」と恐申ければ、「まことに汝がいたみ申もことはり也。さらば安楽寿院の方へ御車を向て、かけはづすべし。」と仰ければ、則牛をはづし、西の方へをしむけ奉れば、只御涙にむせばせ給ふよそほひのみぞきこえける。是を承る警固の武士共も、みな鎧の袖をぞぬらしける。暫有(っ)て、鳥羽の南の門へやりいだす。国司季頼朝臣、御船并に武士両三人をまふけて、草津にて御舟にのせ奉る。重成も讃岐まで御供つかまつるべかりしを、かたく辞し申してまかりかへれば、「汝が此ほどなさけありつるに、則罷りとゞまれば、けふより弥御心ぼそくこそおぼしめせ。光弘法師いまだあらば、事のよしを申て、追而参るべしと申せ。返々此程のなさけこそ忘がたくおぼしめせ。」と御定ありけるこそかたじけなけれ。勅定なればにや、御船にめされて後、御屋形の戸には、そとよりじやうさしてけり。是を見奉る者は申に及ばず、きき及ぶあやしのしづのめ、たけきものゝふまでも、袖をしぼらぬはなかりけり。
 道すがらも、はか<”しく御膳もまいらず、うちとけて御寝もならず、御歎きにしづみ給へば、御命をたもたせ給ふべしともおぼえず。月日の光をも御覧ぜず、たゞはげしき風、あらき浪の音ばかりぞ、御耳のそこにとゞまりける。こゝは須磨の関と申せば、行平中納言近流せられて、もしほたれつゝとながめけん所にこそとおぼしめす。かしこは淡路国ときこしめせば、大炊廃帝のうつされて、思ひにたへず、いく程なくうせ給ひけん嶋にこそと、昔よそにきこしめしゝかども、今は御身の上におぼしめすこそ哀なれ。いそがぬ日数のつもるにも、都の遠ざかり行程もおぼしめししられて、一の宮の御ゆくゑもいかゞ有らんとおぼつかなく、又合戦の日、白河殿のけぶりの中よりまよひ出しに、女房達もいづくにありともきこしめさねば、只いきて生をへだてたりとは是なるらんとぞおぼしめす。異朝をきけば、昌邑王賀は故国にかへり、玄宗皇帝は蜀山にうつされ、吾国をおもへば、安康天皇は継子にころされ、崇神天皇は逆臣におかされ給ひき。十善の君万乗のあるじ、先世の宿業をばのがれ給はずと、思食なぐさむはしとぞ成にける。
 讃岐につかせ給しかども、国司いまだ御所をつくり出されざれば、当国の在庁、散位高季といふ者のつくりたる一字の堂、松山といふ所にあるにぞ入まいらせける。されば事にふれて都をこひしく思食ければかくなん。
 濱ちどり跡はみやこにかよへども身は松山にねをのみぞなく
 新院仁和寺をいでさせ給ふ御跡に、不思議の事ありけり。清盛・義朝洛中にて合戦すべしとて、源平両家の郎等、白旗・赤旗をさして、東西南北へはせちがふ。今度の合戦、思ひのほか早速に落居して、諸人安堵のおもひをなして、かくしをける物ども、はこびかへす所に、又此物怱出来れば、今日こそ、まことに世のうせはてんよとて、上下あはてさはぐ。大臣・公卿、馬・車にて内裏へはせまいり給へば、主上おどろきおぼしめして、南方へ勅使をたてられていはく、「各存ずる所あらば、奏聞をへて聖断をあふぐべき所に、両人忽に合戦に及ばんずる条、天聴にをよぶ。子細何事ぞ。はやく狼籍を止べし。」と云々。両人ともに、跡かたなき由をぞ勅答申さる。
 其日、新院の中御門東洞院の御所にたてられたる文庫共を、出納知兼をも(っ)て検知せらる。或御文庫の中に、手箱一合あり。御封を付られてよく御秘蔵とおぼえたり。仍而知兼是をもちて参内す。即叡覧あるに、御夢想の記也。其中に度々重祚の告あり。其度ごとに御立願あり。惣じて甚深奇異の事どもをしるしをかせ給へり。然るを今披露あり。いか計口おしくおぼしめすらんとおぼえたり。
 重祚の御事は、吾朝には斉明・称徳二代の先蹤ある歟。朱雀・白河の両院も、つゐに御素意をとげ給はず。御意にふかくかけられたればにや、御夢にもつねに御覧じけん。朱雀院は、母后の御すゝめによ(っ)て、御弟、天暦の御門にゆづり奉られしが、御後悔あ(っ)て、かへりつかせ給はん由、方々へ御祈りどもありけり。伊勢へ公卿勅使などたてられけり。白河院も、其御志まし<て、御出家はありしか共、法名をばつかせ給はず。清見原の天皇の先蹤などを思食けるにや。白河院、重詐の御心ざし深かりける故、院中の御政務は一向此御代よりはじまれり。後三条の御時までは、護国の後、院中にて正しく御政務はなかりし也。されば院中のふるきためしには、白河・鳥羽を申也。脱とすでに申上は、ふるきわらぐつの足にかゝりて、捨まほしきをすつるごとくにおぼしめすべきに、結句、新帝にゆづり給ふて後、又重祚の御望あり。それかなはねば、院中にて御政務ある事、すべて道理にもそむき、王者の法にもたがへり。かやうに朝儀すたるれば、かゝるみだれも出来るなり。
 すべて今度の合戦は、前代未聞と申にや。主上・々皇御連枝なり。関白・左府も御兄弟、武士の大将為義・々朝も父子なり。此兵乱のみなもとも、只故院、后の御すゝめによ(っ)て、不儀の御受禅共ありし故也。先脱の後、猶其末まで御はからひあらんには、当今は誰にゆづりましまさん。帝王と申に付ても、白虎通にほ天地にかなふ人をば帝と称し、仁義にかなふひとをば王と称すといへり。正法念経には、はじめ胎中にやどり給時より諸天これを守護す。卅三天、其徳をわかちてあたへ給ふ故に、天子と称すといへり。彼経には、三十七法具足せるを国王とす。いはく、「常に恵施をおこなひて惜まず。柔和にしていからず。正直にことはりて偏頗なく、ふるき道をたゞして捨ず。よく人の好悪をしり、よく世の理乱をか(ん)ゞみ、貪欲なく、邪見なく、一切をあはれみ十善を行ず。」等の説あり。されば聊かも御わたくしなく天下をおさめ給べきに、愛子におぼれて庶をたて、后妃に迷ひて弟をもちゐる、国のみだるゝもとひなり。爰をも(っ)て書にいはく、「聖人の礼をなす、其嫡を貴みて世をつがしむるにあり。太子いやしくして庶子をたつとむは乱のはじめなり。必危亡にいたる。」と。又伝にいはく、「后ならんで嫡を等するは、国のみだるゝもとひなり。」と云々。されば后おほうして、同年の太子あまたおはしまさば、天下必みだるべきにや。詩には艶女をそしり、書には哲婦をいさめたり。王者の后を立給ふ道、故あるべき也。后と申は、位を宮囲にたゞしくして、体を君王にひとしくす。されば三夫人・九嬪・廿七世婦・八十一女御ありて、内、君をたすけ奉る。よ(っ)て詩にいはく、「関々たる雎鳩、君子の徳をたすく。」と。声やはらかなる雎鳩の河の洲にあ(っ)てたのしめる体、幽深として其器あるがごとし。后妃をの<関の徳あ(っ)て、幽閑貞専なる、君子のよきたぐひ也。爰をも(っ)て天下を化し、夫婦をわかち、父子をしたしんじ、君臣に礼ありて、朝庭たゞしといへり。

保元物語 - 32 無塩君の事