保元物語 - 35 新院御経沈めの事付けたり崩御の事

 新院、八月十日に御下着のよし、国より請文到来す。此ほどは松山に御座ありけるが、国司すでに直嶋と云所に、御配所をつくり出されければ、それにうつらせおはします。四方についがきつき、たゞ口一つあけて、日に三度の供御まいらする外は、事とひ奉る人も
なし。さらでだにならはぬひなの御すまゐはかなしきに、秋もやう<ふけゆくまゝに、松をはらふあらしの音、草むらによはるむしのこゑも心ぼそく、夜の鴈のはるかに海をすぐるも、故郷に言伝せまほしく、あかつきの千どりのすざきにさはぐも、御心をくだくたねとなる。わが身の御なげきよりは、わづかに付奉り給へる女房たちのふししづみ給ふに、弥御心ぐるしかりけり。
 「我はるかに神裔をうけて天子のくらゐをふみ、太上天皇の尊号をかうぶりて、枌楡の居をしめき。先院御在世の間なりしかば、万機の政を心にまかせずといへ共、久しく仙洞のたのしみにほこりき。思出なきにあらず。或は金谷の花をもてあそび、或は南楼の月に吟じ、すでに卅八年を送れり。過にしかたをおもへば、昨日の夢のごとし。いかなる前世の宿業にか、かゝるなげきにしづむらん。たとひ烏のかしらしろくなるとも帰京の期をしらず。さだめて亡郷の鬼とぞならんずらん。ひとへに後世の御ため。」とて、五部の大乗経を三年がほどに御自筆にあそばして、貝鐘の音もきこえぬ所に、をき奉らんもふびんなり、八幡山か高野山歟、もし御ゆるしあらば、鳥羽の安楽寿院故院の御墓にをき奉り度よし、平治元年の春の此、仁和寺の御室へ申させ給しかば、五の宮よりも、関白殿へ此由つたへ申させ給ふ。殿下よりよきやうにとり申させ給へども、主上つゐに御ゆるされなくして、彼御経を則かへしつかはされ、御室より、「御とがめおもくおはしますゆへ、御手跡なりとも、都ちかくはをかれがたきよし承候間、力をよばず。」と御返事ありければ、法皇此よしきこしめして、「口おしき事かな。我朝にかぎらず、天竺・震旦にも、国を論じ位をあらそひて、舅・甥謀叛をおこし、兄弟合戦をいたす事なきにあらず。我此事をくゐおもひ、悪心懺悔のために此経をかき奉る所也。しかるに筆跡をだに、都にをかざる程の儀に至(っ)ては、ちからなく、此経を魔道に廻向して、魔縁と成(っ)て、遺恨を散ぜん。」と仰ければ、此由都へきこえて、「御ありさまみてまいれ。」とて、康頼を御使に下されけるが、参てみ奉れば、柿の御衣のすすけたるに、長頭巾をまきて、御身の血をいだして、大乗経の奥に御誓状をあそばして、千尋の底へしづめ給ふ。其後は御つめをもはやさず、御髪をもそらせ給はで、御姿をやつし、悪念にしづみ給ひけるこそおそろしけれ。
 かくて八年御おはしまして、長寛二年八月廿六日に、御とし四十六にて、志戸といふ所にてかくれさせ給けるを、白峯と云所にて煙になし奉る。此君、怨念によ(っ)て、いきながら天狗のすがたにならせ給けるが、其故にや、中二とせあ(っ)て、平治元年十二月九日、信頼卿にかたらはれて、義朝大内にたてこもり、三条殿をやきはらひ、院・内をもをしこめ奉り、信西入道の一類をほろぼし、掘うづまれし信西が死骸をほりおこし、首をば大路をわたしけり。たえて久しき死罪を申おこなひ、左府の死骸をはづかしめなど、あまりなる事申おこなひしがはたす所也。
 去ぬる保元三年八月廿三日に、御位、春宮にゆづり給ふ。二条院これ也。院と申は、先帝後白河の御事なり。信頼もたちまちにほろびぬ。義朝も平氏にうちまけて落ゆきけるが、尾張の国にて、相伝の家人、長田庄司忠宗にうたれて、子どもみな死罪流刑におこなはる。誠に乙若のたまひけるごとくなり。栴檀は二葉よりかうばしく、迦陵頻は卵の中に妙なる音あるごとく、乙若おさなけれ共、武士の家にむまれて、兵の道をしりける事こそあはれなれ。此乱は讃岐院いまだ御在世の間に、まのあたり御怨念のいたす所と、人申けり。
 仁安三年の冬の比、西行法師、諸国修行のつゐでに、白峯の御墓にまいりて、つく<”と見まいらせ、昔の御事思ひ出奉て、かうぞよみ侍ける。
  よしや君むかしの玉の床とてもかゝらむ後はなにゝかはせん
 治承元年六月廿九日、追号ありて崇徳院とぞ申ける。かやうになだめまいらせられけれども、猶御いきどおり散ぜざりけるにや、同三年十一月十四日に、清盛、朝家をうらみ奉り、太上天皇を鳥羽の離宮にをしこめ奉り、太政大臣已下四十三人の官職をとゞめ、関白殿を太宰権帥にうつしまいらす。これたゞ事にあらず、崇徳院の御たゝりとぞ申ける。
 其後人の夢に、讃岐院を御輿にのせ奉り、為義判官、子共相具して、先陣仕り、平馬助忠正後陣にて、法住寺殿へ渡御あるに、西の門より入奉らんとするに、為義申けるは、「門々をば不動明王・大威徳のかため給ふて入がたし。」と申せば、「さらば清盛がもとへいれ
まいらせよ。」と仰ければ、西八条へなし奉るに、左右なくうちへ御行なりぬとぞ見たりける。誠にいく程なくて、清盛公物ぐるはしくなり給ふ。是讃岐院の御霊なりとて、なだめまいらせんために、むかし合戦ありし大炊御門がすゑの御所の跡に社をつく(っ)て、崇徳院といはひ奉り、并に左大臣の贈官贈位おこなはる。少納言経基勅使にて、彼御墓所にむか(っ)て、太政大臣正一位の位記をよみかけけり。亡魂もさこそうれしとおぼしけめ。

保元物語 - 36 為朝生捕り遠流に処せらるる事