保元物語 - 19 関白殿本官に帰復し給ふ事付けたり武士に勧賞を行はるる事

 かゝる所に宇治の入道大相国は、新院うちまけ給ふと聞えければ、橋をひかせ、左府の公達三人相具し給て、南都へおち、禅定院の僧都尋範・東北院の律師千覚・興福寺の上座信実・同権寺主玄実・かれらが兄加賀冠者源頼憲に仰て、寺中の悪僧并に国民等をあひかたら(っ)て、「官軍をふせぐべし。忠あらん者には、不次の賞をおこなはるべし。」と披露せらる。剰興福寺の権別当忠信法師は、関白殿の御息なりしを、討奉らんなど議せられければ、しのびつゝ都へ逃て上り給ふ。「是はいかなる御企ぞや。此入道殿をば君もおもき事に思召、世もて心にくゝ執し奉る所に、年来関白に付たる内覧・氏の長者をばをさへて、末子の左府に付奉(っ)て、法性寺殿御中違、天下の大乱引出給へども、関白殿さておはしまさば、御身にをひては何の御怖畏か有べきに、君に立合奉らんと御支度、以外の御あやまり也。其上今度源平両家の氏族、院宣を承(っ)て、身命を捨てはげみ戦といへども、十善の戎行おもきによ(っ)て討勝給ふ所に、すこしもたがはぬ二の舞かな。天魔のたぶらかし奉る歟、しらず、社の御とがめを蒙り給ふか。」と、皆人唇を返して、そしりまいらせけり。
 同十一日夜に入(っ)て、関白殿、もとのごとく氏の長者にならせ給ふ。去ぬる久安の此、父富家殿の御はからひとして、左大臣の成給しが、今、本に復せしぞめでたかりし。子刻計に及で、武士の勧賞しおこなはる。安芸守清盛は播磨守に任じ、下野守義朝は左馬権頭に成。陸奥新判官義康は蔵人になされて、則昇殿をゆるさる。義朝申けるは、「此官は先祖多田満中法師始て成たりしかば、其跡かうばしくは存知候へ共、もとは左馬助也。今権頭に任ずる条、莫太の勲功賞に、さらに面目ともおぼえず。朝敵をうつ者は半国を給はる、其功世々に絶ずとこそ承れ。其上、今度厳親をそむき、兄弟を捨て、一身御方に参じて合戦いたす事、自余の輩に越たり。是勅命おもきによ(っ)て、そむきがたき父に向(っ)て、弓をひき矢をはなつ、全希代の珍事也。然れども身の不義を忘て、君命にしたがふ上は、人にすぐるゝ恩賞、なんぞなからんや。」とぞ申ける。此条尤道理也とて、中御門藤中納言家成卿子息高李朝臣、左馬頭たりしを、左京大夫に移されて、義朝を左馬頭にぞなされける。

保元物語 - 20 左府御最後付けたり大相国御欺きの事