保元物語 - 22 謀叛人各召し捕らるる事

 新院近習の人々、或は遠国へ落行、或は深山に逃かくれて、其行方をしらざれば、謀にや、少納言入道信西、陣頭にをひて、「其人は其国、彼人は彼国。」とさだめらるゝ由、披露有ければ、さては命計は助からんとや思ひけん、皆出家の姿に成て、これかれより出来る。左京大夫教長卿と、近江中将成雅と二人は、広隆なる所に出家して有ければ、周防判官季実をさしつかはしてめしとらる。四位少納言成高と左馬権頭実清と二人は、天台山浄土寺にて様替て、座主の宮へぞまいりける。是らを始として、心もおごらぬ僧法師になりつゞひて、我をとらじと出にけるこそはかなけれ。
 皇后宮権大夫師光入道・備後守俊通入道・能登守家長入道・式部太夫盛憲入道・弟、蔵人大夫経憲入道をば、東三条にて推問せらる。内裏より蔵人右少弁資長・権右少弁惟方・大外記師業、三人承(っ)て奉行せり。中にも盛憲兄弟、先瀧口秦助安等をば、靭負庁にて拷問せられけり。是等は左大臣の外戚にて有ければ、事の起知たるらん。又近衛院并に美福門院を呪咀し奉り、徳大寺をやき払(っ)たるゆへをとはるゝに、下部先衣裳をはぎ取て、頸に縄をつけければ、盛憲下部に向(っ)て手をあはせ、「こは何事ぞや。吾をたすけよ。」といひければ、座につらなる官人共、目もあてられず覚けり。然れども刑法限ある事なれば、七十五度の拷訊をいたすに、始は声をあげてさけびけれども、後には息絶て物いはず。日こそおほきに、七月十五日、けふしもかゝる罪におこなはるゝ事こそむざんなれ。其上、五位已上の者、拷器によせらるゝ事、先例まれなり。水尾天皇の御時、貞観十八年閏三月十日の夜、應天門のやけたりけるを、大納言伴善男卿、造意の嫌疑ありければ、使庁にて拷訊せられける例とぞ聞ゆる。彼大納言は実犯にて、同九月廿二日に、終に伊豆国へながされけり。それは昔の事也。近き世にはためしなし、情なしとぞ申ける。

保元物語 - 23 重仁親王の御事