保元物語 - 28 義朝幼少の弟悉く失はるる事

 内裏より則義朝をめされ、蔵人右少弁助長朝臣をも(っ)て仰下されけるは、「汝が弟共の未おほくあ(ん)なる、縦おさなくとも、女子の外は皆尋てうしなふべし。」と也。宿所に帰(っ)て、秦野次郎をめして宣けるは、「余に不便なれ共、勅定なれば力なし。母かめのとがいだひて、山林に逃かくれたらんはいかゞせん。六条堀川の宿所にある当腹の四人をば、すかし出して、あひかまへて道の程わびしめずして、舟岡にて失へ。」とぞ聞えける。延景難儀の御使かなと心うく思へども、主命なれば力なし。涙を袖におさめつゝ、泣々輿をかゝせて、彼宿所へぞ趣きける。
 母上は折節物詣の間也。君達はみなおはしけり。兄をば乙若とて十三、次は亀若とて十一、鶴若は九、天王は七也。此人々延景を見付て、うれしげにこそありけれ。秦野次郎、「入道殿の御使に参て候。殿は十七日に、比叡の山にて御さまかへさせ給て、守殿の御許へいらせ給しを、世間も未つゝましとて、北山雲林院と申所に忍びてわたらせ給ひ候が、君達の御事覚束なく思食候間、御見参にいれ奉らん為に、ぐし奉(っ)てまいらんとて、御迎に参(っ)て候。」と申せば、乙若出合て、「誠にさまかへておはしますとはきゝたれ共、軍の後は未御姿を見奉らねば、誰々も皆恋しくこそ思ひ侍れ。」とて、我先にと、こしにあらそひのられけるこそ哀なれ。是を冥途の使ともしらずして、各こし共に向ひつゝ、「いそげやいそげ。」とすゝみける。ひつじのあゆみ近付をしらざりけるこそはかなけれ。
 大宮をのぼりに、船岡山へぞ行たりける。峯より東なる所に輿かきすへて、いかゞせましと思ふ処に、七に成天王はしり出て、「父はいづくにおはしますぞ。」ととひ給へば、延景涙をながして、しばしは物も申さゞりしが、良ありて、「今は何をかかくしまいらすべき。大殿は守殿の御承にて、昨日の暁きられさせ給ひ候き。御舎兄達も、八郎御曹子の外は、四郎左衛門殿より九郎殿まで、五人ながら、夜部此面にみえ候山本にて切奉り候ぬ。君達をもうしなひ申べきにて候。相かまへてすかし出しまいらせて、わびしめ奉らぬ様にと仰付られ候間、入道殿の御使とは申侍なり。思食事候はゞ、延景に仰をかせ給ひて、みな御念仏候べし。」と申せば、四人の人々是をきゝ、皆こしよりおり給ふ。
 九になる鶴若殿、「下野殿へ使をつかはして、いかに我等をば失ひ給ふぞ。四人を助け置給はゞ、郎等百騎にもまさりなんずる物を、此よし申さばや。」とのたまへば、十一歳に成亀若殿、「誠に今一度人をつかはして、たしかにきかばや。」と申されける所に、乙若殿生年十三なるが、「あな心うの者どもの云がひなさや。我らが家にむまるゝ者は、おさなけれども心はたけしとこそ申に、かく不覚なる事をの給物哉。世のことはりをもわきまへ、身の行末をも思ひ給はゞ、七十に成給ふ父の、病気によ(っ)て、出家遁世して頼て来り給ふをだにきる程の不当人の、まして我々をたすけ給ふ事あらじ。哀はかなき事し給ふ守殿哉。是は清盛が和讒にてぞあるらむ物を。おほくのおとゞいをうしなひはてゝ、只一人に成て後、事の次に亡さんとぞはからふらんをさとらず、只今我身もうせ給はんこそかなしけれ。二三年をも過し給はじ。おさなかりしかども、乙若が舟岡にてよくいひし物をと、汝等も思ひあはせんずるぞとよ。さても下野殿うたれ給ふて後、忽に源氏の世絶なん事こそ口おしけれ。」とて、三人の弟達に、「な歎き給ひそ。父もうたれ給ひぬ。誰かは助けおはしまさん。兄達も皆きられ給ひぬ。情をもかけ給ふべき守殿は敵なれば、今は定て一所懸命の領地もよもあらじ。然ば命たすかりたり共、乞食流浪の身と成て、こゝかしこまよひありかば、あれこそ為義入道の子どもよと、人々に指をさゝれんは、家の為にも恥辱なり。父恋しくは、只西に向(っ)て南無阿弥陀仏と唱て、西方極楽に往生し、父御前と一蓮に生れあひ奉らんと思ふべし。」とおとなしやかに宣へば、三人のきんだち、各西にむか(っ)て手を合せ、礼拝しけるぞ哀なる。是をみて五十余人の兵も、皆袖をぞぬらしける。
 此君達に各一人づゝめのと共付たりけり。内記平太は天王殿の乳母、青田次郎は亀若、佐野源八は鶴若、原後藤次は乙若殿のめのと也。さしよ(っ)て髪ゆひあげ汗のごひなどしけるが、年比日来宮づかひ、旦暮になではだけ奉て、只今を限りと思ける心共こそ悲しけれ。されば声をあげて、おめく計にありけれども、おさなき人々をなかせじと、をさふる袖の下よりも、あまる涙の色ふかく、つゝむけしきもあらはれて、思ひやるさへ哀なり。乙若、延景に向(っ)て、「我こそ先にと思へども、あれらがおさな心に、おぢおそれんも無慙也。又いふべき事も侍れば、かれらをさきにたてばや。」と宣ひければ、秦野次郎太刀を抜てうしろへまはりければ、乳母ども、「御目をふさがせ給へ。」と申して皆のきにけり。則三人の首、前にぞ落にける。乙若是を見給て、すこしもさはがず、「いしうも仕りつる物哉。我をもさこそきらんずらめ。さてあれはいかに。」との給へば、ほかひをもたせて参りたり。手づから此首共の血の付たるををしのごひ、かみかきなで、「あはれ無慙の者どもや。かほどに果報すくなくむまれけん。只今死ぬる命より、母御前のきこしめしなげき給はん其事を、かねて思ふぞたとへなき。乙若はいのちをおしみてや、後にきられけると人いはんずらん、全其義にてはなし。かやうの事をいはんに付ても、又わがきらるゝを見んに付ても、とゞまりたるおさなき者の、又なかんも心ぐるしくていはぬ也。母御前の今朝八幡へまふで給ふに、我もまいらんと申せば、皆参らんといへば、具せば皆こそ具せめ、具せずは一人も具せじ、かたうらみにとて、我等が寝入たる間に詣給しが、今は下向にてこそ尋給らめ。われらかゝるべしともしらざりしかば、思ふ事をも申をかず、かた見をもまいらせず、只入道殿のよび給ふときゝつるうれしさに、いそぎ輿に乗つる計なり。されば是を形見に奉れ。」とて、弟共のひたひ髪を切つゝ、わがかみをも取具して、もしたがひもやするとて、別々につゝみ分、各其名を書付て、秦野次郎にたびにけり。「又詞にて申さんずる様よな。今朝御供にまいりなば、終にはきられ候とも、最後の有様をば、互にみもし見えまいらせ候はんずれ共、中々たがひに心ぐるしき方も侍らむ。御留主に別奉るも、一の幸にてこそ侍れ。此十年余の間は、かりそめに立はなれまいらする事もはべらぬに、最後の時しも御見参にいらねば、さぞ御心にかゝりはべるらふらめなれども、且は八幡の御はからひかとおぼしめして、いたくななげかせおはしまし候そ。親子は一世の契と申せども、来世は必ひとつ蓮にまいり会やうに御念仏候べし。」とて、「今はこれらが待遠なるらん、とく<。」とて、三人の死骸の中へ分入て、西に向ひ念仏卅遍計ぞ申されければ、首は前へぞ落にける。四人の乳母共いそぎ走寄、頸もなき身をいだきつゝ、天にあふぎ地にふして、おめきさけぶもことはり也。誠に涙と血と相和して、ながるゝを見る悲しみなり。
 内記の平太は直垂の紐をとき、天王殿の身をわがはだへにあてゝ申けるは、「此君を手なれ奉りしより後、一日片時もはなれまいらする事なし。我身の年のつもる事をば思はず、はやく人とならせ給へかしと、明暮思ひてそだてまいらせ、月日のごとくにあふぎつるに、只今かかるめを見る事の心うさよ。常は我ひざの上にゐ給ひて、ひげをなでゝ、いつかひとゝなりて、国をも庄をも儲て、汝にしらせんずらんと宣ひし物を。うたゝねのねざめにも、内記々々とよぶ御声、耳のそこにとゞまり、只今の御姿、まぼろしにかげろへば、さらにわするべしともおぼえず。是より帰て命いきたらば、千萬年ふべきかや。死出の山、三途の河をば、誰かは介錯申べき。おそろしくおぼしめさんに付ても、先我をこそ尋ね給はめ。いきて思ふもくるしきに、主の御供仕らん。」といひもはてず、腰の刀をぬくまゝに、腹かき切(っ)て死にけり。残りのめのと共是をみて、我おとらじと、皆腹き(っ)てぞ失にける。恪勤の二人ありけるも、「おさなくおはしましゝかども、情ふかくおはしつる物を、今は誰をか主にたのむべき。」とて、さしちがへて二人ながら死にけり。これら六人が志、たぐひなしとぞ申ける。同く死する道なれども、合戦の場に出て、主君と共に討死をし、腹をきるは常の習なれども、かゝるためしは未なしとて、ほめぬ人こそなかりけれ。此首共わたすに及ばず。あまりに父をこひしがりければとて、円覚寺へ送て、入道の墓のかたはらにぞうづみける。

保元物語 - 29 為義の北の方身を投げ給ふ事